誠 心


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 写真の神様がきっといるんだろう。これは、その神様が戯れで起こしている奇跡のひとつにちがいない。ただ写真家に憧れているだけのマスノマサヒロの写真がこれで三たび、『風の旅人』に掲載されることになった。『風の旅人』は知る人ぞ知る、編集長の佐伯剛さんが全霊を傾けて世に問いつづける希有な雑誌だ。毎号一流の写真家や新進気鋭の若手写真家の作品が並んでいる。そのどれもが長い年月をかけ、熱く、けれどもの静かに念と情熱を傾けた秀作ばかりだ。それぞれに気高き気風を感じる作品群が編集統合された一冊から、凝縮され昇華した誠心が立ち上がる。
 『風の旅人』の存在を知ったのはもう十年以上も前になる。だがあの時、その前を素通りしてしまった。人にはやはり時期というものがあるのだろう。何かに飢え出したとき、その時期がやって来る。
 マスノマサヒロはとても中途半端な人間だ。心血を注ぐような、狂っているのかと言われるほどに、生涯をかけて何かに打ち込むということがない。その素振りを見せている程度なら何度でもあるけれど、何度もあるということは、つまりはそこそこのところでいつも終わっているということだ。満足したわけではない。完成したわけでもない。なぜか次々とやって来るものに、気を惹かれ、打ち込んでみる風を装っている。
 「のと」「生の霊(いのち)」「福島の子どもたちから」。これが作品だと言うつもりはないけれど、この三つが『風の旅人』に拾われ、そのおかげで予期せぬまさに夢だと思える道に足を踏み入れている。いつも目の前に現れる事態に戸惑い、ただ逃げ出さないという選択をしただけだった。これがマスノならではの道なんだろうと、信じて疑わず。
 もしかすると、否、たぶんそうなのだが、『風の旅人』以上に佐伯さんの生き方や放つ言葉に大きな影響を受けている。ほとんど妄信しているようなものだと自分でもおかしくなる。人が生きる上で大切なものをひとつ上げるなら、誠心だと思う。誠心誠意とは、まごころをもって行うことだ。まごころは真心でもある。いったい何に対しての誠心か。生きることそれじたいに対してだろう。『風の旅人』にはそれがこれでもかというほどに詰まっている。ページを開く度にこの胸を突き刺すものこそ、その誠心にちがいない。開かずともそばに置いておくだけで、常に誠心が問いかけてくる。『風の旅人』の、佐伯さんの、写真家たちの、さらには後を追う己の誠心が。
 あと何年残っているだろうかと、余命を想うことがある。だが余命とは生き長らえる時間のことばかりではない。むしろ生きてあることの質を問うことだ。その質は、この世の生で終わるものでは決してなくて、消えたあとにこそ想い想われる、関係のことでもある。死ねばだれでも想われると思ったらお間違いだ。質こそが、命だ。「生の霊」を撮る体験をして、その意味を見出した。
 一家の大黒柱を喪った娘と孫娘の生活を半年近く共にして、人は渡らなければならない哀しみの大河の深さを、おそらく自分で決めるのだろうと思った。
 夫を亡くして何日も経たない頃、娘がふたり並んだ壁の写真を外したことがある。聞けば、一日でも早く忘れて立ち直らなければならないのだと言う。微笑んでいるウェディングドレスの女と、はにかんだ優しい男の、わずか四年ばかり前の写真だった。娘はまだ哀しみ方さえ知らなかった。いいんだよ、立ち直らなくても。いつまでも気が済むまで、悲しんでいいんだよ。あれからまだ二年と九ヶ月か。十分に悲しんだだろうか。このごろようやく、たまに話しかけてきたりする。悲しみを重ねて人は哀しみの何たるかに近づいて行く。命という質を深めながら。今は亡き婿殿が変わらずにそう教えてくれる。
 福島の子どもたちと出会い、まるで昔からの知り合いのようにしてまた出会いを重ねていると、彼らのおかげでこうして生きていられるのだと思ったりする。人には、生きるための誠心が必要なのだ。富や地位や権力、名誉、その程度のもので得られる充足感があるのだとしても、それらは生きる質とはなんら関係がない。誠心とは人と人の間(あわい)にあり、だれひとり所有することができない、誠心そのもののことだ。この世は誠心で出来ている。それに気づいて近づくことが、生きるということだ。
 などと考えるようになったのは、やはり『風の旅人』に出会い、自分にとっての写真とはと、真剣に向き合うようになったからだろう。余命をどう生きるのかと向き合わないままでは、おそらく撮ることは決して叶わないのだ。その気持ちに沿う形で、マスノは対象に出会うのだろう。写真の神様の粋なはからいと思うことにしよう。

2013.04.10

『風の旅人』復刊第二号