の と

 あれは小学校の何年生だったか、家族で能登めぐりをしたことがある。能登めぐり、懐かしい言葉だ。半島をぐるりと一周して廻ることをおとなたちはそう呼んでいたものだが、縦貫道が走る今はすっかり聞かなくなった。車などまだ少ない時代の少年は、目の前を飛び去っていく土埃にまみれた風景に心躍らせながら、こわい、とも感じていた。思えばあの家族旅行が能登との出会いだった。人生は短すぎると感じることがあるけれど、ひとつの土地との関わりを振り返れば、いつの間にか数え切れないほどの時々が堆積している。

 金沢在住のカメラマンだから、能登には取材で何度も足を運んでいる。能登空港から車で十数分の山あいで蕎麦屋を営む友人を訪ねた時のことだ。「東京から日帰りで食べに来る人もおるんやぞ」。たしかにそれほどの逸品だとは思うが、能登一の頑固おやじを自認する店主から漏れたのはどこか呆れている口調だった。七年前に空港が開港し、かつて陸の孤島とまで言われた辺境の奥能登も東京からわずかに小一時間だ。その気になれば気軽に各地をつまみ食いできてしまう。地方とはそんなに軽々しいものだろうか。

 能登半島のノトは、アイヌの言葉で半島を意味するのだと、いつか聞いたことがある。確かな話なものか調べたことはないけれど、まるで能登こそが半島の中の半島だ、とでも言っているようで、気に入っている。日本列島を羽ばたく鳥に見立てたなら、能登は頭で顔だ。大陸を見据えるようにして、単調な日本海沿岸のここだけが百キロほども突き出している。半島。半分だけ、島。島になりきれなかった島。陸続きでありながら本土に背を向け海に張り出している様は、どこか中途半端な気もするが、茫洋とした海と陸に挟まれた一点の意志のようにも見えてくる。

 能登半島が今の形になったのは、およそ一千万年前。象の臼歯が化石となって出土しているから、ここもまた大陸の一部だった。真脇縄文遺跡からは土器類のほかイルカの骨やクルミの木を二つに縦割りにした巨木柱根が現れ、その環状列木はアイヌの風習にも通じる霊送りの祭祀跡かという大胆な推測もあるようだ。たとえ意識することはできなくても、太古の時代の血が今も脈々と流れている。

 古代には、大陸との交易が盛んだった。渤海国へ派遣した初めての船の名が能登だったと、『続日本紀』にある。能登には、「ミマナ」「コマ」「シラギ」といった朝鮮の地名に、「比古」「比咩」をつけた古い神社が七社もある。ほかの土地には例のないことで、対岸との関わりの深さが窺える。はるか彼方の海境(うなさか)の常世の国から酒樽などに乗った神々が東風(あいのかぜ)に吹かれて半島の村々に辿り着く。人々は長寿や大漁、豊作を願いながら、厚い心で迎え入れたことだろう。祈る心に応えるように渡来した客人(まれびと)が物や技や知恵を運び込んだ。太平洋側の想念ばかりの常世とはちがい、ここでは実際に恵みをもたらす対岸でもあったのだ。

 その海に開かれた地、北陸道をなぜ北の陸の道と呼んだのだろうか。目の前の険しい山路にとらわれた中央貴族の発想だったと、日本史学者の浅香年木氏が書き遺している。客人とそれに結びつく信仰を「蕃客」「蕃神」と称して疫病や災害を警戒しながら富だけは吸収しようとした支配権力に対し、能登の在地では新たな幸をもたらす客人に期待を抱き、神威を楯に立ち向かったのだという。能登の民はたくましかった。冬の荒れ狂う海の前に立つと、古代へと想像が広がって行く。

 車のドアを開けたとたん、風に煽られ、よろめいた。降っている、などと生易しいものでなく、雪が地面から吹き上げてきた。あわててカメラを合羽の中に抱え込む。ここは上大沢、間垣の里だ。輪島から西へ十三キロほど、険しい岩礁が続く海沿いの道を上り下りしたあと、まるでここが終着点でもあるかのようにたどり着く。道路脇には数隻の休んでいるしかない小船が陸揚げされ、そこからは、小さな川の対岸で小高い裏山に抱かれてひっそりと寄り添う、二十軒ばかりの集落が見えた。周りを囲っている竹の間垣から、黒光りする甍が並んで覗いている。

 間垣、と呼ぶのはなぜだろう。細い苦竹(にがたけ)を何百何千本と連ね、木の柱を支えに壁のように張り巡らし、村全体とその暮らしを守っている。そばに寄って見上げると、視界には揺れる小枝と灰色の空ばかり。四メートルを越える高さがあるのだ。

 間垣に沿って歩くと、海はすぐだった。冷たい風が唸り声をあげて身体中を叩いた。剥き出しの断崖絶壁。その下に抉られた小さな湾に、荒れ狂う白波が流れ込み、吼えて、迫ってくる。波に近寄り低くも構え、濡れながら逃げた。ファインダーの中の風景も濡れてぐにゃりと歪んでいる。どうして人はこの厳しいとしか思えない土地にも住んでいるんだろう。

 間垣の通用口を腰をかがめてくぐった。初めてのことだ。くぐった瞬間、空気なのか雰囲気なのか、外とのちがいを感じてたじろいだ。おもむろに居住まいを正し、この場のすべてにあいさつしなければと聖域に入るようにしてひと言つぶやき会釈した。

 間垣の内と外では、世界がちがった。気を抜くと吹き飛ばされそうになる冬の北西風が、内側ではほんの少しの空気の揺れに変わり、それがなんとも心地いいのだ。竹で囲ってはいるけれど、けして閉じてはいなかった。シベリヤからの風圧を拒絶することなく、しなやかに受け止め、ゆるやかに馴染ませ、取り込んでしまっている。わずかばかりの隙間に耳を当てると、風と竹のささやきだろうか、ひゅうひゅうと消え入りそうな音がした。潮を帯びた湿り気を吸い取る竹は、海鳴りをもやわらげ、夏には西日の暑さをしのぐのだろう。ブロック塀では屋根瓦が吹き飛んでしまったそうだ。竹の間垣は、自然に抱かれた人々の、抱かれるための知恵だった。

 黙々と雪を掻いている人を見かけた。わざわざ人の少ない寒村を選んで訪ねながら、人が恋しい。戸惑いながら近づいた。何年ぶりかで降り積もった雪に驚いている風だった。こんなに朝早くどこから来たのかと、村人が尋ねる。見知らぬ旅行者を煩がるでも歓迎するでもなく、まるでとなり村の知人とでも話すように気安く。白山麓から来て夜は車で寝たのだと伝えた。ああ、あの車かと知っていた。目立たぬようにしていても遮るものは間垣ばかりで、垣根の外を見る内の人の目もまた、どうやらとてもゆるやかなものだった。

 間垣と呼ぶのは、支柱の間に竹を連ねているからだという話もあるが、内と外を隔てながら竹が作り出しているものこそが、間(あはひ)だった。竹と家屋のあいだには所々に空き地や小径というほどの間がある。緩衝材の竹が、ほどよい緩衝帯を生み出している。その間で、感じているものがある。体裁を整えた形ばかりのやさしさでは宿らない、さりげなく自然なものだ。厳しい環境を乗り越えてきた苦労はあっても、それを感じさせない強さがある、などと訳知り顔で言うわけにもいかない。外から流れ込んでくるものを一旦は受け止め、柔らかく加工し、静かにそれと共にあるものだ。

間垣の外に出た。雪は止み風がいくらか和らいで、薄日まで差している。最果ての冬は、目まぐるしく変化する。同じ海へと、また歩いた。変わらずに荒れていた。この辺境の地に住むことが宿命でしかなかったとしても、間垣の人はしなやかで、不快を快に転じてしまうほどにさりげなくしたたかだった。

 奥能登の海と陸のあやうい際に立つと、激しい波風にさらされるこの土地と、日本の姿が、重なって見えてくる。能登も日本も、辺境には辺境の、辺境だからこその学びと、しなやかな生き方が根付いている。

 かつての日本人にとって、海は大いなる間だった。間垣のように内外を隔てるものでありながら、離れたものと心を通わせる隙間でもあった。現在、私たちの周りで間垣に相当するものは、著しく減少している。しかし、間を通して得られるあの清新で和んだ感覚を身体が覚えているかぎり、それを見出すことは不可能ではない。

(『風の旅人』第40号より)